LOGINローブに身を包んだ男を逃してしまった苛立ちをぶつけるように、エルキュールは正面に構える大蛇魔獣――シュガールを睨みつける。
その鋭い視線に触発されたのか、緋色と黒色の鱗と紫の魔素質に彩られた体を大きく伸ばし、シュガールは大きく口を開けて威嚇した。
伸びた体はこの広い部屋の半分を占領し、開かれた口腔は人間を容易く丸呑みできるくらいに大きく見える。
正直言って、今まで戦ってきた魔獣が赤子に見えるほどの威圧感だった。
男の扱いからしても、そこらの魔獣と比べてもかなりの力を持っているのは明白である。
しかし、数の不利からかシュガールは慎重に二人の出方を窺い、攻めてくる様子は見られない。
「へっ、魔獣にしちゃあ知恵が回るみてえだが……無駄だぜ!」
対して二人には悠長にしている暇などなかった。決着を早めるために積極的に攻める必要がある。
もちろんグレンもそのことを理解しており、銃大剣を振りかぶり果敢にシュガールに飛び込んだ。「ガアッ!」
脳天を砕く勢いで振るわれた炎の剣に、シュガールはあろうことかそのまま頭突きで抵抗した。
その頭部は相当な強度を持っているようで、振るわれた剣とぶつかり合って膠着し火花を散らした。グレンの一撃は相手に効果的なダメージは与えられなかったが、全く問題はなかった。
――その両者の横を抜け、大蛇の後ろに回り込む黒い影があったから。
「――エンハンス」
シュガールの体の強度では普通に攻撃しても意味はないだろう、エルキュールは火属性魔法を武器に付与してその巨大な尾を切り落とそうと、ハルバードを薙いだ。
その斬撃は狙い通りにシュガールの尾に命中したが、傷は浅くたちまち回復されてしまう。やはり、魔獣に致命傷を与えるにはコアを狙うほかないないようだ。
エルキュールは急いでコアの位置を探そうとするが、大蛇の外面にはそれらしきものは確認できない。
「シャアァァ!」
「――っ」
傷をつけられたシュガールは怒り狂い、まるで地団駄を踏む子供のように暴れて尻尾でエルキュールに攻撃を繰り出した。地面を這うような急襲を空中に跳んで回避する。
そうして後ろの敵を振り払った大蛇は、立て続けに膠着状態にあった正面の相手を頭で押しやった。
「ちっ、イカれたパワーだな……」
シュガールの急な反撃をなんとか受け流したグレンだったが、その姿勢は崩れてしまっており、大きな隙を曝している。
その決定的な隙をみすみす逃すシュガールではなかった。
グレンを睨みつけるシュガールの体表面にある魔素質が、その紫の光をよりまぶしいものに変えた。
――魔素が力を増し光り輝くことで起こるその現象は、魔法の放出の前兆に酷似していた。
「はっ!? グレン――」
シュガールが魔法的な攻撃を繰り出そうとしていることに勘づいたエルキュールは、グレンに警告しようとした。
しかしそれよりも早く、シュガールの魔素質が湛えていた光を放出した。
次の瞬間、空中に投げ出されていたグレンの頭上に紫電の雷光が一閃し、落雷の如く降り注いだ。
「ぐああぁぁっ!」
雷撃はグレンに命中し爆発を引き起こした。煙に塗れて確認できないが相当なダメージを負ったように思えた。エルキュールは急いで彼の下に駆ける。
「シシャアッ!」
ところがグレンの下に着く直前、エルキュールの動きを阻止しようと大蛇は短く鳴き声を上げ、電気を帯びた魔素質の球体を二人の方へ目がけて幾つも放ってきた。
「邪魔をするな、――エスクード!」
シュガールの追い打ちを防ぐべく、エルキュールは土の初級魔法を放った。二人の目の前に、ほのかに黄色に光る半透明の障壁が展開される。
黄の障壁は大蛇の攻撃を全て防いだが、そのことが大蛇の気を害したのか、その攻撃は激化した。
シュガールの怒涛の攻撃はなんとか防ぎ続けているものの、攻撃の機会を失することになってしまった。「グレン、大丈夫か?」
攻撃を防ぐことに集中しているため振り返ることはできないので、エルキュールは声だけでグレンの安否を確認する。
「……ああ、かなり痛えがな。何とか防御が間に合ったぜ」
隣に並び立ったグレンを横目で見ると、赤く輝く光の粒子が彼の周辺に漂っていた。
――魔法を放出する時間はなかったはずだ。恐らく、オーラによる防御を行ったのだろう。
大気中に含まれる魔素を魔法として放つのではなく、身に纏わせる。オーラという技術は、本来は魔法の効率を高める目的として使用される。
外界に遍在する魔素を使役するよりも、自身の周辺に集めた魔素のほうが術者との親和性が高いからだ。その際に身に纏わせた魔素は、身に受ける攻撃をある程度緩和する働きもある。
基本的な技術ではあるが、咄嗟に行ったのは流石魔法士というべきだろう。「シャアァ! シシャアァ!」
攻撃が効かないことに痺れを切らしたのか、シュガールは雷撃による攻撃を中断し、こちらに突進する構えをとった。
流石にあの巨体で向かって来られたら、ここまで攻撃を防いできた障壁も破られてしまうだろう。
「――させるかよ!」
大蛇が突進する直前、グレンは銃大剣を前に突き出した。
すると剣身の術式が一瞬煌めき、備え付けられた銃砲から火球が放出され相手を怯ませた。
相手が怯んだ隙にエルキュールは障壁を解除し、グレンと共に後方に飛んで距離を離す。この位置ならば、尾を使った攻撃や突進は見切れるだろう。
しかし、その考えを嘲笑うかのように大蛇は魔素質を光らせ、雷撃による攻撃を二人に放つ。
天から降り注いだ紫電をすんでのところで回避した二人だが、その顔つきは苦しいものである。
「ちっ……魔獣のくせに一丁前に魔法使ってんじゃねえ!」
「魔法のように洗練されたものではないと思うが……確かに厄介だな」
人間でいうところの雷属性の魔法は、火と光の魔素を合わせることで初めて成立する複合属性の魔法である。
魔獣風情にそんな高等な技術があるとは信じられないが、その力は本物の魔法に迫るものだ。幸い、躱すことに注力すれば被弾することはないが、その猛攻を前に攻撃に転じることができないでいた。グレンが負ったダメージも決して小さくなく、あまり無理ができる状態ではない。
だが、泣き言を言っても時間は刻一刻と過ぎるもの。そろそろ決着に向けて動く必要がある。
エルキュールは腹を括り、グレンにある提案を持ちかける。
「グレン、しばらく君一人に奴の相手をしてもらってもいいか?」
「はあ!? お前、一体何をする気だ?」
エルキュールの無茶な要求に、迫ってきた雷の球体を切り裂きながらグレンは叫ぶ。
それも無理もないことだろう。この状況でも厳しいというのに、さらに重荷を背負うことになるのだから。そのことを申し訳なく思いながら、エルキュールは自身の考えを話す。
「今から奴を倒すための魔法を詠唱する。その間、無防備になる俺を守ってほしい」
このままシュガールの猛攻を掻い潜りながら、弱点であるコアを狙うのは時間がかかりすぎる。
それならいっそ、高火力の魔法でシュガールの肉体全てを滅ぼしてしまう方が早い。 危険はもちろんあるが、それよりも二人して攻撃の機会を失っているだけなのはいただけない。それなら一人が注意を引くことに専念し、もう一人が攻撃を行うというのが効果的だと思われる。幸いこのシュガールは気性が荒く、自身が傷つけられたりこちらが攻撃を防いだりしたときには、その体を波のように揺らし怒り狂っていた。行動を制御するのは案外容易いだろう。
一応の論理は備えているものの、冷静なエルキュールにしては珍しい性急な選択だった。
「……それで倒せる自信があるんだな? なら、答えは一つしかねえぜ!」
しかし、具体的な方法を話している暇などない。グレンはエルキュールの真剣な目を信じ、深くは聞かずにシュガールとの間合いを一気に詰めた。
「おら、遊びは終わりだぜ、蛇野郎! てめえの気持ちわりい体、オレが切り裂いてやる」
威勢のいい啖呵と共に銃大剣で切りかかるグレン。
正面からの攻撃はもちろんシュガールに致命傷を与えることもなく、またもやその頭によって防がれてしまう。
エルキュールはグレンが大蛇の注意を引いていることを確認し、ゆっくりと頭上を見上げた。
そこには、シュガールが降ってきた際に開けられた大穴がある。かなりの高度があるため、上階の様子は暗闇に閉ざされている。
こんな時に何をしているのだろうと、事情を深く知らぬものが見ればそんな感想を抱くだろう。
しかし、グレンが必死に大蛇と格闘している間も、エルキュールの目線は上階の方へ固定され動かない。
かといって、その目の動きは上階の様子を探るわけでもなかった。エルキュールの琥珀色の瞳は、ただそこにある闇を映していた。
そして徐々に、その闇に吸い込まれてゆく。
グレンが剣を振るい、火球を放出する音も、シュガールが雷を操るときの魔素質の光も、全ての刺激が暗黒の闇に弾かれてゆき、エルキュールに残ったのは闇の魔素の感覚のみだった。
「――――」
己の魔素感覚が完全に研ぎ澄まされたのを確認し、エルキュールは一つ息を吐く。それから周囲の魔素を我が物とするように、身辺に集めていく。
全ての工程を慎重に、丁寧に行う。自身の魔素質の痣とコアを反応させないように、魔人としての力を外に漏らさないように。
この状態で特級魔法を放つのは相当に無理があるが、日が暮れ始めているこの時間は闇の魔素が活性化する時間帯であるため、なんとか放出までいけるだろう。
完全に魔素を掌握したエルキュールは、詠唱する魔法文を念じる。エルキュールは普段詠唱を行わないが、今回ばかりはそうもいかない。
慣れれば詠唱を省略しても問題なく魔法を放てるが、放出の早さと引き換えにその分威力は低下するのは避けられない。
今回は詠唱しなければシュガールを倒しきれないし、何より特級魔法を無詠唱で放つほどの技術をエルキュールは持ち合わせていなかった。全ての準備が整った今、エルキュールは対象をしっかりと視界にとらえ詠唱を開始した。
「――其は闇の牢獄、有と無の狭間の混沌……」
手を前方に翳し、言葉を紡ぐ。
闇の魔素がエルキュールの手元に、渦巻くように集約し魔素質を形づくる。黒く輝く魔素の流れが軌跡を生み出し、次第に魔力が高まってゆく。「開闢と終焉の理は、万物に定められし天意なり……」
ここに至って、ようやく自身が危険な状況にあることに気づいたシュガールは、グレンへの攻撃を中断し、己が脅威を取り払うべくエルキュールの方へと突進した。
「ハッ! 背中ががら空きだぜ! ――ファイアボール!」
目の前の勝負から逃げ出した臆病者の大蛇に、グレンは火球による追い打ちをかけた。
後方からの不意打ちに、シュガールの巨大な体もよろめく。「今だ、決めちまえ!」
エルキュールの魔法に飲み込まれないよう、彼の後ろに下がったグレンが白い歯を見せて笑う。
その期待に応えるよう、エルキュールは翳していた手を下ろす。
「魍魎よ、魔の輪廻へと還れ――グラヴィタス・プレッシオ!!」
エルキュールの動きを皮切りに、それまでに構築されていた巨大な魔素質が弾け、欠片となってシュガールの方へ飛んでいった。
それは敵に命中するでもなく、高速でシュガールの周囲を軌跡を帯びて飛び回り、やがて半透明の黒き結界を形成した。
「シシャ? シシャァ!!」
魔法の威力に身構えていたシュガールは拍子抜けしたように鳴き声を上げ、二人の方へ攻撃を繰り出そうとする。
「シャ……!?」
しかし、大蛇の巨体は結界の外へ突き抜けることなく弾かれてしまった。まるでその先に進むのを世界に拒まれているかのように。
――強大な力を持つ闇魔法は、時として空間を歪めてしまうほどの威力を発揮する。
本来、闇というのは世界の裏側に存在するもの。
光に照らされる物体の背後に。人々が眠りにつく夜更けに。
その闇が、魔法として強い魔力を伴って世界の表側に顕現する。それこそが歪みを生み出す原因だと、古代の偉い学者たちは論じたらしい。
ともかく、空間を歪めることで生じた結界は、シュガールを完全に無力化した。
結界が作動したことを見届けたエルキュールは、小気味よく指を鳴らした。
それに呼応して、結界内で無数の黒球が忽然と現れる。闇の魔素質で形成されたその黒球は、次第に肥大化してゆく。
「シ……シシャ、シシャアアアァァァ――!!!」
黒球が結界内に生じた途端、シュガールが一際大きい悲鳴を上げた。
その黒球は法外な質量を備えているのが特徴で、それぞれが極めて強い引力と斥力を持つ。
結界の内にあるものはその混沌の力に曝され、延伸され、圧搾され、切り裂かれ、捻じ曲げられ、やがて全てが魔素に還る。それが、この結界に捕らわれたものの末路だ。
黒球はなおも膨張を続け、結界内の空間の全てを黒く満たす。
結界の外側からは見えないが、中は凄惨たる状況になっていることだろう。「うわ……えぐいな、こりゃ……」
エルキュールの横に並び立つグレンが、塗りつぶされる前の結界の中の大蛇の姿を垣間見たのか、苦い顔をする。
黒の結界はやがてその役割を終え、解け、跡形もなく消失した。
その場にはあの魔獣の姿はなく、円形に窪んだ地面が広がるのみである。
「うぐ……」
不意に、エルキュールが胸元を抑えその場に蹲る。
ここに至るまでに魔法を使いすぎたのもあるが、それ以上にエルキュールは、もう長らく魔素を身体に取り込んでいなかった。街で平穏に生活するため、魔素質の痣もコアも極力隠してきたが、それは人間の概念で言うと息を止めているに等しい。
それ故の倦怠感と脱力感が、怒涛のように押し寄せてきたのだ。
「おい、大丈夫か?」
グレンがこちらに肩を貸そうとするのを、エルキュールは手で制止する。
「……問題ない。少し、疲れただけだ」
「ったく、無茶するなお前も……今日出会ったばっかの野郎に命を預けるなんてよ」
「これまで共に戦ってきて、君なら十分にやってくれると思っただけだ」
「そういう訳じゃあねえんだが……」
一片の曇りもない琥珀の瞳に、グレンは呆れて嘆息する。
「それよりも、さっきの雷撃を喰らった君の方が心配されるべきだろう」
「ん? 別に大した事ねえよ、ほれ、この通り――ぐっ!?」
自身の無事を示すため腕を回すグレンの表情が、苦々しいものになる。
「はあ、仕方ないな。――クラーレ」
痛みに悶えるグレンに、水属性の治癒魔法を放つ。簡単な魔法だが、これでも十分に効果はあるだろう。
その証拠に、グレンの表情は次第に穏やかになっていった。
「ハハ、ありがとさん。……って、あまり長居できる状況じゃあなかったな」
「そうだ、早く奴を追わないと……!」
熾烈な戦いの中で意識から抜け落ちていたが、あのローブの男をまんまと逃がしてしまったのだ。そこまで時間はかかっていないと思うが、男のあの強さを思うと安心はできない。
その事実を再認識し、エルキュールは焦燥に駆られた。
「脚を使うより、ゲートで行った方がいいな……今の俺の力だと、北ヌール平原くらいまでしか行けないが……」
「あの野郎も魔法で逃げやがったからな、そうでもしねえと間に合わねえだろ」
グレンと頷きあったエルキュールは脱出のための魔法を放出する。
「頼む、間に合ってくれ……」
その祈りの言葉をも掻き消すように、二人は暗黒の穴に吸い込まれ空間を跳躍した。
光の魔術師、ジェナ・パレットとの邂逅。アマルティアの魔人ミルドレッドが引き起こしたとされる魔獣の一件。そしてそれに巻き込まれる形となった、カイル・クラークの失踪事件から四日が経過したその日、アルトニーの詰所に一本の魔動通信が入ってきた。 差出人はロベール・オスマン。このオルレーヌ全国に配置された騎士各員の頂点に立つ選りすぐりの猛者その人である。齢五十に差し掛かろうとは思えない精悍な顔つきと鍛え抜かれた岩のような肉体。毅然とした態度で部下を指揮するその姿に部下からの信頼は厚く、密かに熱狂的なファンもついているという噂だ。 だが、傑物とすら謳われるその御仁からの直々の連絡、その内容というのは誰もが思いもしないものであった。『エルキュール・ラングレーという青年と話がしたい』 取次ぎに来たカーティス隊長からそんな伝言を受けたとき、月並みな表現にはなるがエルキュールは心底驚いていた。 王都に向かおうと準備を進めていた只中の連絡であるのもそうだが、そんな時宜に適った偶然性だけではない。 片や全国の騎士を束ねる大人物。片や人の目を避けながら生活する、表向きは単なる平凡な青年。 圧倒的な立場の違い。その中にいる両者に接点が生じるなど微塵にも考えていなかったというのが主たる理由だった。 しかもこの通信は公的な理由ではなく、あくまでもロベールの個人的な用件のために行われたのだという。 焦らずにはいられなかった。 ただでさえ最近は魔人である身でありながら、堂々と動きすぎたと反省していたところだったのだ。 その正体が明るみになってしまったのではないかと思うと、気が気ではなかった。 通信機を持つエルキュールの手は震え、体内の魔素が嫌に活発になっているのを感じていた。 だがそれを表に出すほどエルキュールも柔ではない。大事なのは平静を装うこと。十年に及ぶ生活で培った図太さを十全に発揮して、ロベールとの通話に臨んだ。「……はい、エルキュールですが」「ああ。お初にお目にかかる、オルレーヌ騎士団団長のロベール・オスマンだ……済まないね、突然無理を言ってしまって。しかし、どうしても君に話しておかなければならないことがあってな」 低く、微かに濁りが混じった声色。しかし、決して老いぼれているという印象はなく、どちらかと言えばくすんだ銀のような渋く、味わい深いものであると感
彼のヌール事件から八日が経ったセレの月・11日のこと。破壊された街を復興しようとする計画が開始され、それに先駆けて郊外の空き地には仮設住宅が設置されていた。 事件当時ヌールの外にいた住人、そして襲撃から逃げ延びた住人、それまで各地で難民生活を送っていた人々も、その動きに乗じて徐々にヌール跡地へと集まっている。 その何れもが、元居た住処を追われ、知人の多くを失うことになった。それでも彼らはその地で再会できたことを喜び、互いに街の復興に尽力しようと、青空のもとで誓いあったのだった。 ヌール復興には比較的体力のある元住民たちのほかに、王国騎士団本部からの要請で赴任した騎士が参加することになった。 先んじて行われたのは具体的な被害状況の確認。一見して全ての住宅が崩壊しているということもなく、細かく見ていけば生活に使えそうな物資がそのまま残っているかもしれないという希望があった。 念のため騎士連中が跡地内に魔獣の残党がいないかどうか魔素を探り、崩落の危険がないと分かったうえで、有志の住人たちは廃墟と化したヌールを探索することになった。 一連の動きは迅速で、元住民たちは我先へと内部へ入っていった。近くにいた騎士たちも、探索における危機はないとはいえその住民たちの勢いに注意の声を飛ばす。 ずっと帰りたかった場所がもう目の前にあるのだから、そんな簡単に止まるわけもない。 暫くしないうちに、その場にはお揃いの薄紫の髪が映える二人の女性のみが残された。 一人は物腰柔らかな壮年の女性。もう一人は利発な雰囲気を醸す少女。身体的特徴から母娘だと推測できる彼女たちは、先ほどまでここに集っていた元住民たちの一員であった。 だがどういう訳か、その脚は先へと進む素振りを見せず、何か焦っているようにも取れる表情で辺りを見回すばかりである。「……失礼、見たところあなた方もヌールの人間のようですが……中には行かれないのでしょうか? もし中の様子が心配でしたら、私が付き添うこともできますが」 これを不思議に思った騎士連中のうちの一人が彼女たちに尋ねる。少し圧倒されてしまうほどの長身と、人当たりの良い爽やかな笑みが印象的な青年だった。 対する母娘はまさか声をかけられるとは思っていなかったのか、動きを固くした。だが相手はどこからどう見ても一般の騎士である。そのことを認めた女性はすぐ
カーティス隊長とエルキュールらとの会合はそれからつつがなく終わりを迎えた。と言ってもあの話題以降のエルキュールは全くと言っていいほど頭が働かず、その内容の記憶もどこか朧気であった。 最低限の情報として、カーティス隊長が王都の騎士へ橋渡しをしてくれ、迎えを手配してくれること。その間エルキュールたちはこのアルトニーに滞在しなければならないことは、念のためグレンとジェナに確認を取ったが。 会合を終えたカーティス隊長はすぐにでも騎士団本部と連絡をしたいとのことで、一足先に詰所へと戻っていった。 何の偶然か泊っている宿が同じであったジェナとは、各々の部屋で別れるまで帰りを共にした。そのジェナも、相部屋であるグレンも、揃ってエルキュールを心配してくれていたのを覚えているが、エルキュールにはどうにも上手く返せた自信がなかった。 まるで意識に靄がかかってしまったかのような酩酊感の中。時間が過ぎゆく感覚すらも忘れ、気付けばエルキュールは暗くなった室内でベッドに寝転がっていた。 隣のベッドにいるグレンの煩いいびきが、鈍麻したエルキュールの意識にさざ波を立たせてくれたのだろうか。 それとも夜に混じる闇の魔素に、魔人としての本能が刺激されたのか。 光に群がる虫のように、もしくは糸で操られる人形のように。エルキュールの身体は無意識のうちに、暗闇に閉ざされた街へ誘われていた。 アルトニーの夜風に交じって舞う闇の魔素、空気中に含まれるそれを、エルキュールはやけに敏感に感じ取っていた。振り返れば今日は随分と力を消耗した、その反動で身体を形作る魔素質が反応しているのだろうとエルキュールは思った。 疲弊した身体には夜の散歩が丁度良い。エルキュールのコアも魔素質も、闇属性の魔素を中心に形成されているので、意図して魔素を吸収をしなくても闇の魔素を浴びることができるのだ。 欠乏したものが満たされていく感覚は心地よく、人の世界に生きる魔人にとって何より貴重なものだ。身体だけでなく精神もまた安らいだように感じられ、エルキュールの足取りも徐々に軽くなる。「……あ」 そうして黒く染まる道を闊歩していた足がふと止まる。今朝――ひょっとすると昨日の朝かもしれない――通り過ぎたアルトニーの広場、そこにはかつてのヌールと同じく魔動鏡が鎮座していた。 もちろん広場なのだから魔動鏡があるのは当たり
会合の約束を取り付けたエルキュールは、すぐさまクラーク一家と歓談していたジェナも来るように誘った。 当の本人は快諾してくれたのだが、彼女に懐いているカイルとサラは難色を示し、説得するのに少し手間取ってしまった。 どういう訳か、特にカイルはジェナが離れることに殊更に抵抗しており、事の発端のエルキュールを見る目は、まるで親の仇を見るような眼つきであった。 話を聞く限りジェナとカイルたちとは共にヌールに行く約束を交わしたらしく、それが果たされぬまま別れることを惜しんでいるようだった。 ヌールの街は崩壊した。だから約束も無効となる。簡単だが残酷な論理は十にも満たない幼子には受け入れ難いようで、説得するのには苦労した。 彼らはしばらくしたら故郷であるガレアに帰るとのことで、結局のところ時を見てガレアに遊びに行くというジェナの提案で、なんとか子供たちも了承してくれたのだった。 カイルたちがここまで渋るのも偏にジェナの人徳からなのだろうが、こういう場合にはそれすら面倒を起こす種になってしまうのだと、エルキュールは難儀したのだった。 一悶着ありはしたが、カーティス隊長の案内の下、件の店までやって来た一行。木の香りが心安らげる居心地の良い内装の店だったが、この時勢からか閑古鳥が鳴いており、悲しいほどすんなりと奥の個室に案内された。 席に着くや否や各々が注文を取り始め、エルキュールも渋々それに倣った。魔人である彼は食事を採らないためだ。 動力源となる魔素はもちろん料理にも含まれているが、そこに含まれる魔素の属性はまちまちな上効率もすこぶる悪い。 家族と同じ時間を共有するために、口に入れた料理を魔素に分解するという技能を身につけこそしたが、家族以外の人間、しかも複数人で揃って食事をするのは彼にとって中々心理的負担が重い行為だといえよう。 詰まるところ、食事を採りながらの会合を認めたとはいえ、エルキュールはこの食事会に対して消極的であった。 結局、エルキュールはお腹がすいていないという理由で簡単なサラダとスープを注文するに留めた。 共に食事をしたことのあるグレンはともかく、ジェナやカーティス隊長には疑問に思われることを覚悟していたのだが、それも杞憂だったようだ。 カーティス隊長からは「私も年なのか最近は食が細くなってしまいましてねぇ」などと共感を受けた。ある
アルトニーの森を脱したエルキュールとジェナが騎士団詰所に帰還したのは、もうすっかり陽が落ちてしまった頃であった。 詰所に先に逃げ延びていたグレンとカイル、未だ帰ってこないジェナたちを心配するクラーク一家は、二人の無事に大いに喜んだ。 クラーク夫妻は腰を痛めるのではないかと心配するほどエルキュールらに頭を下げていたし、ずっと不安と緊張を抱えていただろうサラは大声で泣きだす始末。事件の渦中にいたカイルは自分のした行いを猛省し、そんな妹に申し訳なさそうに何度も謝っていた。 それぞれが思い思いに感情を爆発させる様に、エルキュールはもちろんのことジェナやグレンも若干押され気味だった。 それに追い打ちをかけるが如く、遠くから騒ぎを駆け付けた騎士連中までもがその人の渦の中になだれ込んできた。 一兵卒の過失によるこの事件に責任を感じていたアルトニー騎士たち。もちろん全員ではないがカーティス隊長を筆頭に数人が集い、事件解決に動いてくれたエルキュール、グレン、ジェナの三名に丁寧な陳謝と賞賛を送った。 ここまで事が大きくなるとは思っていなかったエルキュールは、正直いって多くの人間に囲まれるというこの状況から逃げ出したくあったのだが。 彼の弱気に目聡く気付いたジェナとグレンによってそれも阻まれ、むしろかえって二人からの揶揄いを受けることになったのだった。 詰所内はまるで祭りでも催されているのかという程の賑わいを見せていたのだが、やはり勢いというのは時が立てば落ち着くもので、次第にそのほとぼりも冷めていった。 先ほどエルキュールらにお礼を述べてきた騎士などは、この時間になってもなお仕事に追われているらしく、早々とそれぞれ持ち場に戻っていった。 この街が抱えている問題は依然としてあることを再認識させられるが、とにかくこれからの展望について語るのなら、今が絶好の機会だろう。 疲弊した精神を癒すべく、集団から離れていたところで暫しの休憩していたエルキュールは、場の空気が落ち着いていくのを感じながら決意した。 王都へ至る道にグレンのほかにジェナが加わった。まずはそのことを知らせようと赤髪の彼を探す。 こういう時、背の高さは素晴らしいものだなと思う。部屋の隅の方でカーティス隊長と話しているグレンの姿を容易に確認できた。「そういえば、グレンの家はあのブラッドフォードだったな
「分かりやすいように、君が話してくれたことと照らし合わせて話すとしようか」 これから話すことの全容を知っているのは、エルキュール自身を除けばもはやグレンくらいしかいないだろう。あまり自分のことは周囲に語らないように心掛けてきたので、いざ核心に迫る部分を自ら曝け出すとなると緊張が抑えられなかった。「まず、そうだな。君が言っていたという黒づくめの男だが……あれは恐らく俺のことだ」「ん? え……? えぇぇええー!!?」 ジェナの叫びが木々を突き抜けこだまする。確かに今のは突拍子もない発言だった。訂正し、順序だてて補足する。「その、俺は元々家族とヌールの方に住んでいたんだ。そこで魔獣を狩り、そこから採れた素材を家計の足しにしていた。君が聞いたのは恐らくそのことだろう」「あー、そっか。確かにそうかもしれないけど……って、え? ヌールに住んでいたってことは――」 過去形の表現。もしくはそうでなくてもエルキュールが言ったことがどういう意味を持つか、ジェナには容易に知れたかもしれない。「……あの事件の日。魔獣の大量発生の知らせを受け、念のために俺はある組織について調べてみることにしたんだ」「アマルティア、だね」「そう。結果としてヌール近辺の平原で彼らの痕跡を見つけたが、それは意味を為さなかった。陽動にまんまと嵌り、何とか追いついたころには、彼らが魔獣を操って街を攻撃し始めた後だった」 感情の色を乗せず、淡々と語る。本題でもないところなのでさっさと流したいという思惑からだったのだが、聞いているジェナの表情は悲痛に溢れていた。 とはいえ既に飲み込んだこと。要らぬ感傷を与えないように、言葉を矢継ぎ早に繰り出す。「動機は不明だが、アマルティアは人間を汚染する他にも、俺という存在を仲間に引き入れたかったようだった。そんな勝手な都合のために、不幸にも無関係だったヌールの街が巻き込まれた」「……まるであなたにも非があるみたいな言い方だね」 それは実際そうだろうと、言いかけた口を噤む。ジェナは責めているのではなく、暗にそれを否定しているからだろうというのが理解できたからだ。自身がどう捉えるかは勝手だが、その健気な思いは無下にはしたくなかった。「それはどうだろうな。けど俺は、俺の大切なものを傷つけたアマルティアを許せなかったし、無力な自分にも嫌気がさした。だから一人
「すみません! 特盛パフェ一つ!」 アルトニーにある宿の一角、宿泊客が食事に舌鼓を打ちながら談笑している食堂にて、カウンターに控えていた男の一人に向かって威勢よく注文を伝えるジェナの声が響いた。 快活な笑みを浮かべるジェナとは対照的に、カウンターの男はそんな彼女の不釣り合いともいえるほどの元気の良さに辟易したのか、苦笑しながらそれに応じる。「嬢ちゃん、確かさっきもここに来て注文してなかったか? 特盛パフェもそうだが、カヴォード産牛肉のステーキ定食やガレア風サラダ、他にも――」「あーあー! それ以上はもういいですから! きょ、今日は特別なんです! たくさん食べて気合いを入れようかなと…
オルレーヌを守護する王国騎士団、その騎士たちを統率するロベール・オスマンはその立場の関係上、またはその実直さ故に非常に悩みの多い人物である。 例えば、魔物の勢力が強まっているため騎士団に所属する騎士の一人一人の練度を今一度見つめ直さねばならないことについて。 例えば、いつまでも身を固める素振りを見せない愛娘のことや、先日息子夫婦の間に生まれた孫への贈り物について。 悩みの種類やその重要度は様々であるが、目下のところロベールの頭を悩ませているのはそれとは別の事であった。「ふう――」 ロベールのために設えられた
遺跡の祭壇部屋の前にて、グレンの提案に同意しようとしたエルキュールの言葉を奥から発せられた声が遮った。 奥にいるのはあの人影のみ。つまり、あの人物がエルキュールらに向けて言葉を発したことは明白だった。 動きを悟られないよう十分な距離をとっていたつもりだったが、こちらの動きが知られていたらしい。 突然声をかけられたことで声を発しそうになるが、二人は何とか息を殺し相手への警戒を強めた。「ふむ、静観……か。――悪くない選択だ。尾行の腕前はもう少し磨いた方がいいと思うがね」 ローブを纏っているので外見を知ることはできないが、声質は男性のもののようだ。低く力強い声に硬い口調、そのいずれもが
魔獣が落とした石片を手掛かりに、二人は北に位置する遺跡を目指す。周りはもはや開けた平原ではなく、木々が茂る林である。 鬱蒼とした木々で空が覆われ、視界が悪い。閉鎖的なその環境は人間の手が介入していないため、魔獣が住みついているようだ。 途中、何回か魔獣に襲われることもあったが、その度に二人は連携しこれを撃退していった。 ところが、その回数が十に差し迫った頃――「だーーっ!! 流石に数が多すぎねえか!? どうなってんだ、さっきからよ!」 立て続けに魔獣に襲われ、ついに我慢できなくなったグレンが叫んだ。その赤い髪は彼の苛立ちを表すかのように見える。「なあ、エルキュール。この辺はいつ







